天気の子が雨で、君の名は。が晴れなのはなぜ?〈ネタバレ〉

天気の子は、雨がやまない社会を描いている。
なぜ、雨はやまないのだろうか?

君の名は。と比較することで、天気の子の天気が悪い問題について考えたい。

それと、最後のオチが、納得いかない。気がついていない深謀遠慮な意図があるのかもしれないが、これでいいのか?というツッコミを入れてまとめたい。

◆君の名は。と3.11

君の名は。は、基本的にハレている。雨が降っている必要がないし、むしろハレていなければ困る。

なぜか。
天体現象を強調するためである。
ハレのち隕石という、衝撃的な気象である必要があるからだ。雨の中の隕石は見えづらい。

君の名は。において、隕石は決定的に重要な意味を持つ。3.11の突然の災害を暗喩しているからだ。

そして、もう一つのテーマが、

「もし、私があなただったら?」である。

主人公の男女が激しく入れ替わる設定は、
アニメではお決まりの設定で、
それだけで楽しいものである。

しかし、今この時代に表現することは、
単に楽しい以上の意味がある。

分断が進み、コミュニケーションが不可能性を帯びている社会において、交換可能性を考えることは、計り知れない価値がある。

死者であるはずの三葉の魂を、現代を生きる瀧が一緒になって入れ替わりながら山道を疾走して救済するストーリーは、私たちが3.11という巨大な出来事に対して奪われた何かを救済するものである。

もうすこしざっくり言えば、テーマは過去である。過去の傷を癒やし、未来に向かって進んでいこうという作品である。

◆天気の子で雨が降っている理由

一方、天気の子のテーマは、現代からの救済である。

現代は、混沌としている。
何が正解で、何が悪なのか、私は何をすればいいのか、簡単にはわからない。
相手を誹謗中傷する言葉がネットに飛び交い、世界は混迷の度を増しつつある。

天気の子は、このような現代の状況から、私たちを救済しようとする試みに見える。

天気の子は、天候が狂った社会を描く。
ずっと降り続く雨は、現代の混沌を想起させる。

雨の中、島から出てきた家出少年の穂高は、東京では居場所がなく、悲惨な目に会い続ける。そして、そのたびに「東京スゲえなあ」とつぶやく。そのすげえ東京は、クリーンでキラキラしたものではなく、混沌としている。

その混沌にあえぐ穂高に、光が差し込むことになる。それが天候を操ることができるハレ女こと陽菜との出会いである。二人は、協力しハレ女ビジネスで一儲けする。

家出少年穂高と陽菜は、楽しく幸せな時間を過ごすが、その生活はもちろん安定したものではない。保護を名目に、警察が彼らの生活を破壊してしまう。

この構造は、万引き家族そのもので、擬似的なつながりは、法律によって破壊されるのが世の常である。温かいものは、冷たいものによって壊される。

穂高も陽菜も、自分の生活を守るために、必死に逃げる。しかし、もう一つの大きな問題が重なる。陽菜の運命である。

陽菜は、世界の天候を元に戻すため、天の生贄として神隠しに会うことが宿命づけられていたのだ。陽菜は、天候を回復させるため、生贄としてこの社会から消えることを選択する。

穂高は、陽菜を取り戻すため、天に旅立つ。そして、陽菜にこう告げる。「世界なんてどうなったっていいじゃないか!帰って来い!」世界の秩序より、自分たちの幸せを優先しようと、叫ぶ。

こうして、世界の天候は狂ったままになった。

◆ラストはちょっとモヤッとするんだよな!

私たちは、現代の混沌の中で、穂高や陽菜のようにもがきながら生きている。

おそらく、これからさらなる混沌がやってくるだろう。その中で、私たちはどのように生きるべきなのだろうか?

天気の子は、私たちに深く問いかけてくる。

穂高や陽菜のように、世界を捨てて自分の幸せを願うことは、身勝手にも見えるかもしれない。しかし、一つの答えとして、十分に尊重されるべきだろう。世界はもともと狂っているのだから。

「あなたが世界を変えられる。」

天気の子は、平成に流行ったこのスローガンに対して、静かにノーと言う。

しかし、二人が再会した時、天気は一瞬ハレになった。世界を変えるとは、つまりそういうことだと示唆しているのだろう。

だが、ここだけはどうしてもガテンがいかない。社会は変えようとせずに、身近な人を大切にしたら、意図に反して世界がハレる、などということが本当にあるのだろうか?

そして、それがこの映画のラストシーンで本当にいいのだろうか?

天気の子に深い感動があるだけに、次回以降、このモヤモヤを晴らしてくれるような優れた作品が製作させることを期待したい。