表現の自由は限界を超えたかも

評論

※この記事は、スピーチライターサロンのコンテンツの一つである、「コムキャスRadio」の書き起こしです。スピーチライターサロンに関して、詳しくはこちらを御覧ください

今日は愛知トリエンナーレの表現の不自由展が中止になった問題についてお話ししようと思います。

【愛知トリエンナーレに関するワイドショー報道、大丈夫?】

これね、実は僕すげー長大な構想を練っててですね、一個ずつ議論してこうかなとも思ったんです。どういうことかって言うと、なんで中止になったのか、表現の自由って何なのか、とか色々議論しようとしたんですが、そっちよりももっと重要な事に気が付いちゃって。

何かっていうとですね、 Twitter でちょっとそのある種、今度の「表現の不自由展」が中止になったその慰安婦像問題みたいな話をちょっとしてみたんですよ。で、してみて気付いたのは、なんかね、たまらなく不毛な感じがするんです。

議論が仮に盛り上がったとしてもなんか多分不毛なんですよ。テレビのワイドショーで議論が盛り上がってても不毛じゃないですか今。 Facebook で誰も議論なんかしてないし Twitter では議論は一応進んでいるんですが、何かね、いがみ合ってるだけで一向に議論になってないんですよね。思ったことをそれぞれが言うみたいな。

それは例えば政治家どうしであっても、例えば今回の表現の不自由展で大村知事かな、河村市長と大村知事、愛知県知事がそれぞれ批判しあってるじゃないですか。あれもなんかね、その建設的なようで建設的でないって言うか、なんか全然河村さんの方とか話し聞こうとしないじゃないですか。

みたいなことになってて、そもそも表現の自由って何で保障されなきゃいけないんだっけみたいな前提も、ある人とない人がそれぞれいて、なんか世の中で議論をするということがすごくすごく不毛に感じるわけですよ。

この事って僕が実は『 なぜあなたの話は響かないのか 』で議論してたことだということに気がつきます?

『 なぜあなたの話は響かないのか 』 では議論とか正しさとかロジックとかというものはもうオワコンになっていて、そういうものでは人は噛み合ってコミュニケーションをすることはできないのですっていうことを書いたんです。

そのことがまさに今起こっていて、と言うかこのあたり吉本事件もそうなんですけど、ほんの少し前までは賢明な人間が賢明な人どうしコミュニケーションを取って、議論していけば前に進めるっていうリアリティがあったわけなんですけど、今は賢明と思われているであろう人同士が罵り合って前に進まないとか、ちょうどね、これ日韓問題もまさにそうで、まったく議論がね、前に進まないわけです。

それをあらゆる方向で起こっているという感じがするんですよ。だからなんかね、そのまさに議論の時代からまた次のステップの時代、コミュニケーションというのが根本的に変わった、言葉の意味が根本的に変わったというのを、もっともっと深いレベルで思い知ったっていう感じです。これはですね、今後ももっと悲惨な方向になってくでしょうね。

【表現の不自由展に関する巷の議論が不毛な理由】

ちなみにね、今回の例をとってなぜ議論が不毛になったのかってちょっとだけ解説しますよ。

今回の表現の不自由展でまず問題になったのは慰安婦像、少女像ですね。平和を願う少女像の展示がされてるって事に右派が気付いて、大騒ぎを始めたってのが最初だったわけです。

それに河村市長も乗って、あれは絶対良くないということで検閲的なコメントを出して、結果的にテロ的な話も広がって、展示を継続することはできないということで表現の自由が脅かされて、あの像は撤去されたっていう流れから始まってるんですけど、まず河村さんがその発言をする時に自分の好き嫌いで言って良かったのか良くなかったのかとか、慰安婦像はなぜ良くないのか、良いのかとか、という話がまずはっきりしないまま議論が展開しました。

それに対してだけに、右と左がそれぞれ言い合ってるんだったら問題ないのですが、そこに昭和天皇の写真を焼くアートがあったんですけど、それがまたですね、全く論点が違うんだけど、慰安婦像の件と昭和天皇の件は全く別の事件ですね。

昭和天皇の事件は、シャルリエブドって皆さん覚えてます?新聞社がムハンマドの風刺をフランスでやったらイスラム圏から怒られて、自爆テロに繋がったっていう事件があったんですが、まさにあの事件と類似するような事件です。

昭和天皇の写真を焼いたのはいろいろ経緯があるわけですよ。近代美術館で天皇陛下のコラージュ作品を出したら、それを近代美術館が焼却処分にしちゃったことに対する抗議で作られたアートなわけです。

それもあるし、しかも左右でそれぞれなんて言ってるかっていうと、天皇の写真を焼くなんてけしからんっていう人と、左派は天皇の写真を守れなかった、戦中天皇の写真を守れなかったために校長先生が割腹自殺に追い込まれたという事件があった。「そんな馬鹿げた話があるだろうか」みたいな批判の文脈もあり、写真はただの写真であるって言いたい人たちと、右派左派がそれぞれいがみ合っちゃってるわけですね。全く別なんですよ。

慰安婦像は問題がなかったっていう風に修正的な立場を取りたい、いろんな立場があるんですよ。歴史修正主義的な立場をとりたい人もいれば、そうではなくて、慰安婦というものは現にあった。日本政府の解はどこまであったかわかんないんだけど、現にあったのだから、少女像を作ることは何も間違ってないじゃないかっていう意見もありますし、更に言えば日本政府の立場というのは、明確に日韓合意の時に言っていて、軍の関与の下、そういうことが行われたことは事実としてあったので、ごめんなさいって謝ってるわけですね。

慰安婦像はあったということを前提に、あったことを記憶したい人たちと、そもそもなかったっていう人たちと、みたいな対立があったりするわけですよ。これも議論のポイントでしょ。

次に全体をテロがどうとかこうとかいろんな、ちょっと今しゃべっただけでこんなに議論の論点があるんです。多分厳密に見ていけばもっともっと議論の論点は膨らみ続けるわけなんですよ。

【コミュニケ―ションの前提が破壊された日本】

何が言いたいかって言うと、もうね一つの事象についてたったこれだけで、吉本事件だってたったあれだけの情報に対して議論し尽くすポイントが無限にありすぎて、議論なんてやってられないんですよ。

しかもね、この議論が積み上がっていけばいいんですが、積み上がらのんです。全然前に進んで行かない。もう無限の論点と感情が押し寄せあって、殴り合って、それで終わりみたい。

つまり何かで表現の自由って確かに守られなきゃ絶対ダメですよ。でもそれ以上にコミュニケーションの不可能性が極限までも高まっちゃってて、なんか全く新しいコミュニケーションのスタイルをおそらく開発していかないと無意味なんですよ。

例えば映画っていうコミュニケーションはとても強力なツールですよ、確かに。アートっていうコミュニケーションツールもとても強力なコミュニケーションツールですよ。「この世界の片隅に」とか、あと「天気の子」とか、ああいうのは例えばリベラルな思想を非常に強くうたっている作品だと思いますが、映画が大ヒットしたってもう仕方ないんですよ。

っていうぐらいなんかね、コミュニケーションの前提が破壊されてる感じがしてるって絶望感がここにあります。つまり何が言いたいかっていうと社会はもうコミュニケーションが不可能な状態まで追い込まれています。

【コミュニケーションが不可能な社会で自分を守るには?】

その上で自分自身を守るための何か空間が必要だと思うんです。これトクヴィリズム、トクヴィル主義って言うんですが、小さなチームで議論を積み重ねながらより大きなものにコミットメントしていきましょうって話です。

より大きなもの、つまり国家レベルになってくるともう荒廃しててコミュニケーションなんてやってられないような社会がもう現に出来上がってしまってますから、そこにコミットするためには小さくて強力な強いつながりになる集団、コミュニティね、こういうものを作らないといけないっていう話にどうしてもなります。

それはおそらく価値を中心に、家族的価値なんだろうな。なんとなく仲良くできそうな人たちが集まって、価値を創り出していくっていうことを通して、より大きなものに戦っていくっていうそういう時代に完全に突入しているように見えます。

議論はその小さなコミュニティで起こって、外には外交的に是々非々でやりあうみたいなふうにしていかざるを得ないような感じがしてます。

ということでね、なんか今表現の自由がどうとかこうとかってすごい戦ってるんですが、なんかその前提がもう徹底的に破壊されちゃって、全く新しいコミュニケーション手段とコミュニティと、テクノロジーもかな、全部ひっくるめて何かやってかなきゃいけないっていう感じですね。なんかどうしても議論が、それでも喋るんだとか何かそういう話になっちゃうんですけど、試しにツイッターとか Facebook とか友達とかと議論してみてくださいよ。それが何の意味があるのかが、もうよくわかんなくなっちゃったっていうのが僕のフィーリングです。

ということで、今日は表現の自由、議論の限界かな、表現の自由は限界を超えたかもっていう話でした。なんか大変な時代になっちゃったね。

コメント