SWS(スピーチライターサロン)活動報告

SWS活動報告

SWS事務局の湊朱音です。本日から、毎月末にスピーチライターサロンの活動報告をブログに記載していこうと思います。スピーチライターサロンには、60名程度のメンバーがいらっしゃり、アクティブに活動しているのですが、どういったことをしているのか、ぜひ参考にしてみて下さい。

SWSとは言葉を磨く仲間が集まるオンラインサロンです

スピーチライターサロン(SWS)とは、言葉を磨く仲間が集まるオンラインサロンです。

スピーチライターになりたい、スピーチ・プレゼンを上達させたい、コピーライティングを学びたい、言葉の力をビジネスに役立てたい、作家になりたい、PRを学びたいなど、多様な目的で集まり、メンバーはそれぞれのペースで活動しています。

学生からサラリーマン、ミュージシャン、公務員、起業家、経営者まで、幅広い層が一緒に活動しているのも特徴です。

活動中の分科会一覧

スピーチ部・スピーチライティング部

今月のスピーチ・スピーチライティング部は、それぞれ1回ずつ開催しました。

今月は参加人数は普段より少なかったので、丁寧な添削と、原稿作成の解説をマンツーマンで行いました。参加者が少ない場合は丁寧な指導受けられ、参加者が多い場合には、多くのメンバーの原稿を読んだり、スピーチを聞くことができるというメリットがそれぞれにあります!

スピーチライティング部は、メンバーがスピーチライターとしてスピーチを書くワークを行なっているのですが、今月はモデレーターの蔭山が「教育」に関するスピーチを行うという設定で、メンバーがヒアリングをして、蔭山のスピーチ原稿を書いて発表していました。

同じ人物の同じ内容のスピーチなのに、メンバーによって原稿が全然異なっていたので、面白いワークショップになりました。

3分スピーチという制限を設けて、10分ヒアリング、15分執筆、発表、フィードバックという流れで進みました。フィードバックの時間は、一人一人にフィードバックと解説があるので、とても実践的でためになる時間だったと思います!

ビジネス部

今月のビジネス部は、「マーケティング」。マーケティングをテーマに、課題図書を参考にしながら、講義とディスカッションを行なっていました。サロンのメンバーには金融関係者や実業家も多く在籍しているので、現場の話も盛り上がっていました。

ビジネス部は専ら男性メンバーが多い部活なのですが、最近女性の参加者も増えてきていて嬉しいです。マーケティングの話は、マーケの仕事をしている人でなくても、様々な企業(例えばスターバックスなど)のマーケティングをたくさん学べる機会だったので面白い講義だったんじゃないかなと思います。

オンラインゼミ『感情から書く脚本術』

今月のオンラインゼミは、『感情から書く脚本術』を参考にゼミを行いました。

物語には、人を感動させ、動かし、社会を変えていく力があります。そして、小説や映画の中だけでなく、スピーチ、プレゼンテーション、ビジネスでも、人を動かす原動力となります。そこには物語が必須です。

しかし、いざその物語の力を活用しようとシナリオライティングに着手しても、なんだか面白くない、感動のない、情緒的な言葉が並ぶだけの、薄っぺらな作品に仕上がりがちです。

そこで、ハリウッドで高い評価を受け、日本でも浸透しているジョーゼフ・キャンベルの神話理論を応用した創作法を学んで、普遍性の高い物語を書く方法、応用する方法について議論しました。

映像研打ち合わせ・撮影

スピーチライターサロンの映像研究会では、『スピーチハンター』というYouTube番組を制作しています。

スピーチハンターとは、「はるか」と「あみ」が世界の歴史に残る名スピーチを発掘していく番組です。 教えてくれるのは、スピーチ考古学の世界的権威「うさちん教授」!

10分程度のトーク番組です。スピーチの勉強にもなるのでぜひ。

コムニスのYouTubeはこちらから。

Communis
【コミュ力応援チャンネル コミュスタ】 コミュ力を向上させたい人のためのとっておきの情報をスピーチライター 蔭山洋介が探求するチャンネルです。 スピーチライターサロンの詳細はこちら。 コムニスクラブはこちらから。

SWS DAYライティング自習会

今月から、月に一度、SWS DAYを開催しています。2時間程度、新宿に集まり、自習会やワークショップをしています。

ライティングの個別相談や仕事の相談、カメラの撮影、ちょっと挨拶や雑談に、逆に蔭山からの相談も。自由にお過ごしいただけます。

今回は、ライティングの相談会と、演劇のワークショップを行いました。シェイクスピア「ロミオとジュリエット」の朗読会は、とても盛り上がりました!

ラジオアーカイブ:ジョーカー殺人に倫理は存在するのか。

2021年10月31日衆議院選挙の日に大きな事件が京王線で起こりました。ジョーカーのような服装をした男性が無差別な殺傷事件に京王線内の電車の中で及び、その後の取り調べに対して、人を殺して死刑になりたかったなどと供述しています。
こういう殺人は定期的に起こるんですけど、そういう愉快犯的な殺人事件に対して多くの人はこういう反論をするわけですね。人に迷惑をかけずに勝手に死ねと。要は飛び降り自殺とか、そういう人に迷惑をかけるような死に方するんじゃないよと、死ぬなら誰にも迷惑かけずにひっそりと死になさいと、こういうことを言うわけなんですけど、この批判が全く見当外れである話と、そもそもこのような死刑になりたいような人物に対して一体どのような言葉が効くのかをお話します。

まなざしの地獄

まず、まなざしの地獄の話をしなければなりません。見田宗介という日本で有数の社会学者だった方が『まなざしの地獄』という書籍で書かれていることは、昭和の高度成長に至るまでの地方においては眼差しが濃厚すぎて、その濃厚な眼差しから逃れるために都会に出てくる。
そして都会に出てきて様々な視線を逃げるために、例えば警備員から目撃されたその目線から逃れるために殺人を犯すということが一般的に行われたということを永山則夫連続射殺事件(1968)を通して明らかにしていくわけです。

しかし、近年限りなく透明に近いブルーなどと呼ばれるような存在、社会、路傍の石としての自分みたいな、誰もあなたのことを見てくれない、誰も私を気にかけてくれない、誰も私を肯定してくれないという社会において、こういうことがとても起こりやすい社会といっていいんでしょうか。
そのようなことが起こりやすい社会においては、逆に視線を閉ざすための殺人ではなく、視線を求めて殺人を犯すことになります。つまり、死刑になる、殺されたいわけではないですね。その「死刑」が1つ大きなキーワードになるんですけど、何か愉快犯的な行動を起こして視線を獲得することが、限りなく透明に近い存在であることよりもより自分の生きるための大きな動機になる。だから、見てもらうために死刑を望むような愉快犯的犯行に及ぶということが起こるわけです。
近年は無敵の人などと呼ばれるような透明に近い存在の人達ですよね、誰とも地縁、社縁、血縁これらが絶たれて視線を獲得することが極めて難しくなった人が愉快犯的に死刑になるような殺人事件を犯すということが発生をするわけです。

縁が絶たれた人は、倫理的な葛藤が生じにくくなる

このような視線を獲得するために犯罪を犯そうとする人は、倫理的な問いはどうなっているかということに当然なるわけです。心の中で殺人を肯定できるのか。殺人を肯定するということが当然起こるわけです。それは正義ではなくて倫理の崩壊といってもいいと思います。
多く人は殺人事件を犯そうとした時に自分の中で倫理的な葛藤が生じるわけです。本当に人を殺していいんだろうか、本当にものを盗んでいいんだろうか、本当に○○をしていいんだろうか、こういうことが何か犯罪めいたこと、他者との関わりがある中で他者に迷惑をかける行為をするような時に何かそういう心の葛藤が起こるわけなんですが、このような無敵の人、縁が絶たれてしまった人はそのような葛藤が極めて起こりにくい、逆に自分のために行動を正当化することさえできます。
それはどういうことかというと、ニーチェがこんなことを言っているんですね。

あらゆる倫理の根源は生きようとする意志に根差しているのだ。
なぜ生きようとする意志があると倫理が発生するのかですが、生きようとする場合、他者との関係が必ず生じます。それを安定したものにしようとするために自分は倫理的な存在、他者との関係を良きものとするような継続的努力をする存在でいようとするわけです。
ところが、当然自ら生きようとすることを捨てているわけですね。死んでもいいとか、死刑になりたいなどと主張する存在においては他者との関係の縁が絶たれているため、つまり無敵の人なんですが、そうなると当然自分は厳しい状況に置かれているわけですから、もうどうだっていいやと倫理的な一切の葛藤を捨て去って他者への恨み、社会への恨みだけを誘発して、死をまっすぐ受け入れるための行動を起こすことが容易に想像がつくわけです。
だから、まず生きることそのものに対する肯定をなんらかの理由で与えなければなりません。そのためにまず教育にいて、つまり地縁、血縁、社縁などの基本的な縁においてあなたが生きることを肯定するものである、あなたは全人格的に生きることを認められた存在であるということを360度あらゆる人間関係の中で認めていくことがまずは第一歩になろうと。

しかし、社会は非常に厳しいものです。今、日本は厳しいと言われながらもそれでも貧困国や中世ヨーロッパに比べれば、もしくは中世の日本に比べれば、それでもマシな社会と言うこともできるかもしれません。非常に厳しい貧困の中に喘ぐ心理の状況、盗み、殺人、このようなものを通してでしか生きることができなかった罪人は、貧困を理由にかなりの数がこれまでの歴史の中で発生してきています。
そういう人々の中において、どうすれば生きることが重要な生きるということにかける、もしくは生きるということが自分の前提になるということが可能になるのかということが、もう皆飢えて死にそうな時にそういうことが可能になるのかというわけなんですが、それはやはり宗教的なものがそれを担っていました。

キリスト教は神の意志によって自殺を否定し、生きることそのもの、自殺を禁止し生きることにかけろということを命じるわけです。そこに根拠はないわけですね。宗教的な理由によって生きろというわけです。そしてそのことによって倫理が発生し、社会を維持しようと思うものです。これたまたまなんですけど、同じような記述が仏教の僧侶の中でもありまして、曹洞宗の僧侶南直哉(みなみじんさい)さんという僕の尊敬している僧侶がいますが、彼はこう言うわけです。
仏道というのは生きることにかけることである。これほとんど同じでしょう。生きるという意思を尊重することから全てが始まる。生と死を選択する時に絶対に生きることにかけるのが仏教なのであるというわけですね。これもおそらく理由としてはほぼ同じだと思います。

偶然にもキリスト教倫理、仏教倫理において生きることに対するかけが倫理の根源であるということを指し示しております。社会が荒廃し社会が人の生きることにかけることを支えることができなくなった時、何をもって生きるべきなのか。これは宗教社会学的になんらかのサポートが必要なのではないかと思われます。それは歴史の中で繰り返しそのようなサポートがされてきたわけで、今後おそらく社会はより荒廃していくことになります、その中においてなぜ我々は生きることにかけるのか、このことが改めて問われる時代がやってきていると言えるかもしれません。

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