【文章や物語の基本】構造と構成の違い【ドラえもんでわかる】

評論

僕は、構造主義者といって良いくらい構造が大好きで、構造しかないじゃんと思っているので、その「構造とは何か」をお話ししたいと思います。

「構成」というのは、基本的には「筋書き」のことなんです。起承転結みたいな話。

「構造」というのは、構成の裏にある「設定みたいなもの」を指します。

どういうことか、ドラえもんを例に話してみたいと思います。

ドラえもんの「構成」

〜ドラえもんのあるある構成〜

のび太とジャイアンが喧嘩をしていじめられます。

ワーンと泣いて、ドラえもんに泣きつきます。

そしたらドラえもんが、「しょうがないなぁ、何とか~!」とか言って、道具をくれます。

のび太君はその道具を使って、何と逆襲に成功します。

でもその道具の力を上手く利用しきることができなくて、結局失敗しちゃう。

「うえーんやっちゃったよ、ドラえもん!」とか言って終わるというのがドラえもんの定番の構成です。

いろいろな道具が出てきたり、いじめられ方が変わったり、いろいろなパターンでやっているのがドラえもんという作品です。

ドラえもんの「構造」

このドラえもんの「構造」はどうなっているのという話ですね。

野比のび太というダメな存在、これはあなたのダメな部分、私のダメな部分の結晶だと思っていただいて良いと思います。

この私がどう成長することができるかという、のび太君の成長ストーリーを描こうとしています。

そのダメな私に、「100%絶対に寄り添ってくれる存在としてのドラえもん」がいます。のび太のママは結構厳しい人で、あまり優しい側面を見せません。

どちらかというと優しく支えてくれる母性はドラえもんのほうにあるんだろうと思います。

ということで、「のび太を癒すドラえもん」という構図がここにあります。

でも、このままだとグダグダになってしまうので、のび太を奮い立たせる存在として、嫌な奴としてのジャイアン。

これは社会を代表するわけです。

嫌な奴の代表として、ジャイアンとスネ夫というコンビがいます。

ジャイアンとスネ夫に、のび太君は立ち向かわなければなりません。

立ち向かわなければならないんですが、単なる嫌な奴がそこにいるだけだと、立ち向かえません。

そこで良い恰好したいしずかちゃんという存在が出てきます。

しずかちゃんの前では良い恰好をしなきゃいけないので、ジャイアンとスネ夫に立ち向かうという構図が生まれます。

このようにドラえもんの作品は、のび太を支えるドラえもんに対して襲い掛かってくるスネ夫トジャイアン。

のび太はそこから飛び出すための動機としての、恋としての存在としてしずかちゃんがいるという構造がここにあるわけです。

構造で物語はできている。構造でメッセージを込めていく。

この構造が無ければドラえもんという作品を自由に組み替えたり、作ったりということはできません。多くの場合、さっきも説明しているんですが、母性としてのドラえもんとか社会を代表する存在としてのジャイアン、スネ夫とか。

例えばママは生活の厳しさとかという存在だと思うんですが、そういう存在としてのママとか、あと異性としてのしずかちゃんとか、メタファー、隠喩がそこに込められていたりもします。

そして、そのような構造を使って、物語を動かしながら様々なメッセージを込めていくことも、また構造なんですね。

構成はあくまで、このような構造を使って作り出す「起承転結みたいなものである」ということが分かるかと思います。

何が言いたいかと言うと、構造と構成はこうして考えると全然違っていて、構造って設定とも呼べなくもないです。

こういうものがしっかりしていないと、当然ですが構成もしっかりしてきません。

ですから、文章や物語を書く時、いずれも裏側にある構造のほうがより重要になります。

スピーチも当然ですが、「構造が表面化して原稿になる」という理解で間違いないかなと思います。

構造って分かったでしょうか。また感想などお聞かせください。

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