「主体的に生きる」とは
スピーチライターの鈴木です。
「主体とは何か」について考える前に、みなさんに質問です。
飲み会の乾杯のドリンクを決める時
周囲が「とりあえずビール」と言っている中、あなたはソフトドリンクが飲みたいとします。
その時あなたは、「いや、私はソフトドリンクで!」と、主張する人ですか?
ここで、「主張しない」と答えた人は主体的に生きていない人なのでしょうか。
私は、そうではないと考えています。
「ソフトドリンクを主張しない」人も、そこに主体があれば、それは主体的に生きている人なのです。
「自分らしく主体的に生きる」とは、自分の主張を恐れることなく常に主張できることではありません。
ではどういうことが「主体的に生きること」なのか。
今回は、「主体的に生きること」について社会学的観点を踏まえながら私なりの解釈を書いていこうと思います。
「自分で考えて、自分で決めて、行動すること=主体的に生きること」
「主体的に生きる」とは、「自分で考えて、自分で決めて、行動すること」ということになりますが、
一体何を考えて、何を決めないといけないのか・・・
具体的な「何か」を答えられる方っていますか?
「将来の夢」「目標」色々あると思いますが、本当の意味で「主体的に生きる」とは
単に将来自分が
「どんな仕事についているか」
「どんな生活を送っているか」
「どんな人たちに囲まれているか」
ということだけを考えるわけではありません。
自分が「どんな人間に見られたいか」という考えが最も大切な軸になります。
それを軸に
「こんな人間に見られたい」から、結婚する
「こんな人間に見られたい」から、こんな仕事をする
「こんな人間に見られたい」から、こんな趣味をする
それを考えて決め、行動することが「主体的に生きる」ということです。
冒頭にあった「ソフトドリンクを主張しない人」も、「主張できない」のではなく「協調性があるように見られたいから、主張しない」のであれば、それは主体的に生きているということになります。
他人からの評価を気にして生きるのではなく、自分がありたいように生きることが大切だ!
なんて反発の意見が聞こえてきそうですが、社会を生きる上で他者からの評価を無視することはできません。
もし「他者の評価なんて気にしない」と自分らしく生きている人がいたとすると、「他者からの評価を気にせずに生きているように見られたい」という気持ちが軸にあると考えられると思います。
「主体」ってなに?
そもそも「主体」ってなんでしょうか。
私が知る中で、面白い答えを提示してくれた学者がいます。
アーヴィング・ゴフマン 社会学者です。
(画像:Wikipediaより引用)
ゴフマンはこう言っています。
「本当の私は、評価されている私を演技している、いわゆる変換装置なのである」と。
これをもっと詳しく説明したいのですが、まず前提として
人は常に演技をしながら生活しているということを、理解してもらわなければいけません。
例えば、子育て中の共働きの母親であれば
「〇〇くんのお母さん」としてのAさん
「△△会社の主任」としてのAさん
「□□家の嫁」としてのAさん
それぞれの顔がありますよね。
その場合Aさんは、その時接する相手との関係性をふまえながら、
自分が「どう見られたいか」を意識して、見られたいように行動すると思います。
この「どう見られたいか」という理想の自分と、他者から「こうゆう人だよね」と評価される表出する自分の隙間を埋めるために考えて行動する「私」こそが主体である
というのがゴフマンの主張です。
つまり「主体的に生きる」とは、「外から評価される私」をどうやったら「理想の私」に近づけることができるのかを、自分で考えて、自分で決めて、行動するということです。
例えば、先ほどあげた「他者からの評価なんか気にしない」と思っている人がいるとします。
その人の「理想の私」は「他者からの評価を気にせずに生きている人」ですよね。
そうすると、その「理想の私」をもとに、「他者からの評価を気にせずに生きているように見える振る舞い」をすると思います。
そして他者から「あの人は他者の評価を気にせずに自分らしく生きてるよね」という評価があってはじめて、その人は「他者の評価を気にせず生きている人」になるわけです。
この、「理想の私」を決めて、そう見えるように振る舞い、私の理想と他者の評価の「隙間を埋める私」こそが、「主体」であると、ゴフマンは言っているのです。
ひと昔前の「主体性」
ひと昔前は男性と女性で、理想の形がある程度社会によって決められていました。
女性は結婚して家庭に入り、子供を産み子育てをしながら夫を支える
男性は一家の大黒柱として家計を支えるためにがむしゃらに働く
理想の最終形態はみんな同じで、みんな「外から評価される現在の私」を、どうやって「社会が求める理想の形」にするのか試行錯誤していたわけです。
これは、「こうありたい理想の私」が社会に決められていたため、自分で理想を決めていたわけではありません。
ゴフマンの言葉を借りるなら、演じるべきキャラクターの特性は決まっていて、それをどう演技をしたら良いのか、演技の方法を試行錯誤する部分に主体性を求められていました。
しかし、現代は違います。
現代に求められる「主体性」
今の社会は、多様性の社会です。
昔のように、社会によって決められた「理想の形」が存在しません。
つまり、自分がどうありたいかという「私の理想」を決めるところから主体性を求められるのです。
今までは台本は用意されていて、描かれているキャラクターを演じる私が「どう演じるか」に主体性が求められてきました。
しかし今は、台本を書くことに最も主体性が求められる時代です。
主人公がどんな物語を生きたいのか。
そして、理想のクライマックスはどんなものなのか。
そのクライマックスを迎えるためにはどう振舞うべきなのか。
物語の台本を書き、主人公のキャラクターの特性を決め、演じ方を考え、メガホンを取り監督をする。
その全てを決めることに、主体性が求められています。
今までは先人達と同じ道を歩めれば周りからの評価がどうなるかだいたい予測がつきました。しかし今は、自分の書いた台本がどう評価されるかの予測ができないことも多いです。
だからこそ人は不安定である一方で、自分の描いた台本と真剣に向き合い「私の理想」を成し遂げることに達成感があるのかもしれません。
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