「鬼滅の刃」が「ワンピース」を抜いた笑えない理由

評論

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なんとですね、皆さんあんまり漫画とか読まないと思うんですが、僕も実は読まないですけど、アニメは見てるんですよ。

たまに息抜きで、アマゾンプライムとかで見てるんですけど、その中で「鬼滅の刃」っていうのが、週刊少年ジャンプの連載のものがアニメになっていて、凄い面白かったので見てたんですけど、これがですね、なんと重大ニュースになってまして、あの「ワンピース」を売上で抜いたというニュースなんです。

これ凄くないですか。

十何年連続で「ワンピース」が1位だった訳なんですが、それをなんと新人の一作目の作品「鬼滅の刃」が抜いたという、もう超大ニュースですよ。

しかも、下半期は圏外で、上半期いきなりぶち抜いて「ワンピース」を抜いたっていうことで、大騒ぎになっている訳です。

で、「鬼滅の刃」っていうのはどういう話かって言うと。
「ワンピース」がどういう話か、という話から一応した方がいいのか。

「ワンピース」というのは、「海賊王に俺はなる」って言っているルフィという少年が、海賊王になるためにその証しである「ワンピース」を求めて海賊として旅に出ている、というお話です。

で、「鬼滅の刃」はどういうお話かと言うと、実の妹が鬼に噛まれて鬼になってる、つまり“ゾンビもの”なんですけど、鬼に噛まれて鬼になっちゃったその妹を人間に戻すために戦うっていうお話です。

鬼に噛まれて鬼になっちゃうっていうぐらいだから、鬼を倒すシーンの鬼がいて、一番強いボスの鬼がいて、その王物の鬼を倒しに行くっていうのが「鬼滅の刃」っていう作品です。

で、これだけ聞くと、両方ただ単なる戦いもので、伝統的な鬼だゾンビだという、ゾンビものにしか見えないと思うんですけど、これはね、僕、社会学というほど大げさなものじゃないかもしれないですが、パラフレーズしてこの構造を見てみると、意外だな、なるほど、と。

「ワンピース」を追い抜くのは分かる気がするな、というのが僕も率直な感想なんで、その話をしますね。

「ワンピース」というのは、親父とか兄貴とかという言葉に代表されるように任侠の世界が結構出てくるんですよ。

任侠っていうのは疑似家族な訳です。繋がりが、とにかくインターネットが始まって、希薄になった訳ですよ。

インターネットが始まると、なんで希薄になるのかっていうと、ものを買う時にインターネットだけじゃないな、コンビニエンスストアとかインターネットとかって、相手の顔を見て買い物しないじゃないですか。

例えば、万引き家族的な世界観って、要はそのー昭和の駄菓子屋さんとかって「お前、最近元気か」とかってそういうのを結構話してくれたりするでしょ。

「元気してました」とか「こんにちは」とかって、みんな声かけ合って買い物を楽しむというものだったんですが、そうではなくて、そういうものから切り離されて、スーパーマーケットみたいになっていくと、その折自然と言葉を交わさず物を買うっていうことが起こる。

毎日行くお店だけど、店員さんの顔覚えてない、みたいなことが起こるのは、そういう理由からです。

で、そういうような社会に対して、繋がりも当然、そういう出会いのきっかけ・目線の交わすきっかけが失われると、我々のインターネット社会やコンビニ社会っていうのは繋がりが希薄化します。

そうすると、私たちは繋がりや居場所が欲しいので、相手からのまなざしが欲しいので、色んな繋がりを求める訳ですよ。

で、その疑似的な繋がりを求めるというその思いに、任侠的家族、つまり疑似家族、万引き家族でもいいですけど、万引き家族も、あのルフィの友達的家族も、あとは、オヤブンたちおやじたちを中心とする白い業を中心としたような任侠家族も、みんな家族なんですよ。

その繋がり、私という存在が、繋がりに包摂されるっていうことを、常に問題にし続けているのが「ワンピース」っていう作品なんです。

それに対して「鬼滅の刃」は、そのような家族主義とか仲間主義を取りません。

炭治郎という存在と、鬼という存在が、典型的な対比として描かれているですが、主人公の「鬼滅の刃」の炭治郎は、

この私がどう思うのか?

お前はどう思うのか?

あなたは何がしたいのか?

っていうことを問い続ける存在なんですね。

一方で、鬼や鬼の仲間というのは、圧倒的な強者である鬼の王ボスに対して、恐怖で縛られていて、全体主義的に考えない・感じない相手が喜ぶことを全力でコミットするっていうことだけに特化していく存在、つまり全体主義が鬼として描かれてるでしょ。

やっぱり全体主義対自分で考える存在の炭治郎っていうものを、対比として描き続けています。

ここにあるのは、繋がりの希薄化、に対する処方箋ではなくて、もはや繋がりを強制する装置としての全体主義が、広く人間の心に蔓延してきているというリアリティーが我々の中にあって、そのような恐怖と言うか、全体空気を読むというものかもしれないですけど、全体主義というものに対する抵抗としての誕生っていうのが描かれている訳です。

これはつまり、中間組織としての任侠的家族のリアリティーがもう後退してしまって、若い人たちの間で、少年たちの間で後退しちゃって、もうこの私が、すぐ全体主義、例えば国家みたいな巨大なものだったりする訳なんですが、見えない何かより大きなものの命令に直接さらされてるっていうことになります。

だから、このようなリアリティーが少年の間に広がっているということ、という風に見た方がいいと思うんですよ。

つまり、任侠的家族に救いを求めるんじゃなくて、〈この私〉が直接全体主義的な脅威に立ち向かうってことが、恐らく「鬼滅の刃」には描かれているので、ちょっと笑えないですよ。でも「鬼滅の刃」という処方箋は、「ワンピース」に次いで効いてくるので、本当にその時代を映す鏡としての「ワンピース」から「鬼滅の刃」の世代交代っていうのが、今回起こったじゃないかっていうのが、僕の見立てな訳です。

ということでナンバー113、「鬼滅の刃」が「ワンピース」を抜いた笑えない理由でした。

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