書くために構造が重要-もののけ姫から

評論

※この記事は、スピーチライターサロンのコンテンツの一つである、「コムキャスRadio」の書き起こしです。スピーチライターサロンに関して、詳しくはこちらを御覧ください

【シナリオを面白くするためには日常・非日常に加えて、巻き込むための仕掛け=構造が必要】

今日は「もののけ姫」について話をしていこうと思います。書くためとか、シナリオとかそういうものを面白くするための方法について、基本的な構造として、「日常と非日常の繰り返しが重要なんですよ」というのがこれまで喋ってきたことなんですけど、これだけでは実はパワーがそんなには出ません。

もっと楽に聴き手を共感に巻き込んだり、物語に感情移入させるためには、非日常を圧倒的な強度で立ち上げて、巻き込む仕掛けみたいなものが必要です。それは物語の裏側にある構造と呼ぶべきものです。

今回は「もののけ姫」を例にとって「もののけ姫」の構造から、どのように非日常が立ち上がっているのかっていうことでちょっと解説してみたいと思います。

【もののけ姫は「手つかずの自然」に手をつけようとする人間と「自然=もののけ」の対立が緊張感を生み出している】

「もののけ姫」はどういう話かというと、アイヌの少年アシタカが祟り神(もともと神様だった人)が祟りを集めて祟り神になった)から呪いを与えられることから物語は始まります。この時ちょっと押さえておきたいのは何なのかというと、祟り神(この世ならざる不吉なもの)とアシタカ(この世の人)が接触をし、あの世のエネルギー(祟りのエネルギー)がアシタカに乗っかったというところから物語がスタートしているって事です。

アシタカは人里離れて、この祟りを取るために旅に出るというのが事件の契機で、そこからアシタカの非日常が始まります。アシタカは人でありながら人でないものを背負った存在として存在しているという意味で、まずここに不安定があります。

もののけ姫はその後どのように展開していくのかというと、アシタカは犬神の一族の娘サン(人間でありながら犬神の一族の娘となった、もののけ姫)と出会います。サンもまた人でありながら人ならざる存在です。アシタカもまた人でありながら人でならざる業を背負った存在です。ともに人間社会ともののけ社会の境界にある存在。

「たたら場」というのが舞台になりました。「たたら場」というのは製鉄をするあの場所で、昔から強すぎる炎というのは汚れの象徴でした。圧倒的なパワーを扱うがゆえに、人里離れた山奥の中にこっそりと鉄を溶かす「たたら場」というのが作られていました。「たたら場」というのは人間側の辺縁(人間側の最ももののけ側に近い最前線)にありました。

だから「もののけ」はその最前線にある「たたら場」を襲撃し、なんとか亡き者にしようと努力をします。自分たちの領海を汚すのではないっていうことです。手つかずの自然(これをおそらくもののけといいます)に手をつける人たちと自然の対立の中心に、アシタカとサンがいて、アシタカとサンは手付かずの自然と人間社会をなんとか両立できないのかということで七転八倒するというストーリーになっています。

【もののけ=自然というだけではなく、価値観の異なるイデオロギーのメタファーかもしれない】

ここにお互いに譲れない正義が込められています。この場合、人ともののけという対立ですが、もののけとは何なのか、これは一応自然ということになっていますが、この間の再放送を見た感じで言うと、単なる自然界とだけ定義するのはちょっともったいなく、もっと価値観の違う何か、例えばイスラムやISIS、その他様々なイデオロギーのようなものかもしれません。そういうものと共に過ごすというのはちょっと無理かもしれないですが、なんだかよくわからない異文化的なものです。

ある人の文化と異文化の境界線に鋭い緊張感があり、それをなんとか収めようと七転八倒するのですが、最後、人がシシガミ様の首を取って持ち逃げしようとしてとんでもないことになります。

【譲れない正義を対立させることによって緊張感が生み出される。この緊張感を生み出す構造を作ることによって作品は大きなエネルギーを持つ】

この時にシシガミというのは、もののけ側の象徴です。手付かずの自然の象徴です。手つかずの自然全てを人間が手中に収めた瞬間というのがそこに描かれています。

そして手つかずの自然はどうなったか?自然つまりもののけは「手を付けない自然」という枠組みに収まります。シシガミは自然と一体化し、花さか爺さんみたいになって、色んな植物や動物を呼び寄せます。

しかしそれはもはやもののけではなく動物です。つまり「手付かずの自然」から「手をつけない自然」へという風に大きなパラダイムシフトが行われています。

今人間が対立しているのは、対もののけではなく、自分の自然界(自分でコントロール可能な手をつけない自然)がただあるだけというのが、再帰的近代化の文脈でも全くそういうふうに言えるんですけど、全ての近代を自然界にも走らせたっていうことで理解することができます。

というように構造だけ紐解いていくと、そういう構造になっています。あの作品があまりカタルシスを感じないのは、物語が最後解決していないからなんですが、手を付けない自然をどう扱うべきかということについては、何も言っておりません。でもものすごい緊張感がそこにあるのは、譲れない二つの正義の相克がそこにあるからです。

物語を書くとき、スピーチを書くとき、ビジネスを設計するとき、実はこのような人間の魂の緊張感を生み出す構造みたいなものを、どうやって裏側に設計しておくかっていうことに、ものすごく腐心します。これがうまくできるとエネルギーが無限に出てくるような、不思議な現象が発生し、いい作品が作れると思っています。

ちょっと難しかったんですが、今回は書くためには構造が重要だっていう話をさせていただきました。

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