パラリンピックという奇跡と3つの価値

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今日は、2020年パラリンピックの開会式にとても感動したので、その話をしたいと思います。

よくオリンピックと比較されますけど、オリンピックよりも断然いいですね。

パラリンピックというコンセプトそのものがオリンピックを超えて素晴らしいんです。

だから、感動したんだと思います。

ちなみにパラリンピックの開会式見られた方いらっしゃると思うんですけど、識者がいろいろなコメントをするわけです。

片翼の少女が飛び立つのは素晴らしいとか、困難に乗り越えている姿に心打たれたとか、いろいろ言うわけなんですけど、演出的なメッセージは一貫していて、

これはよくある手法ですが、困難を乗り越えている主体、それはあなたと関係ない誰かではなく、あなたのそのものであるというテクニックなので、あのメッセージは、あなたも片翼の飛行機、勇気を持ってあなたも飛び立ってくださいね、ですよね。

だから、パラスポーツで一生懸命頑張っている人達を見ると、僕らは深く感動をします。

その深く感動をする理由は、スポーツを通してあなた、つまり私の限界の向こう側に勇気を持って飛び立っているような応援をされている。僕達が応援をしているんじゃなくて、応援をされている、そんな感覚になるのが、パラスポーツの本当に素晴らしいところです。

さて、パラリンピックの価値を整理すると3つくらい思いついたので、それを紹介しようと思います。

障がいを持つ人の存在を知らしめる

1つ目が、障がいを持つ人の存在を知らしめるです。

パラスポーツを見ていると、僕達はここにいるんだよという、ものすごい強いメッセージを感じます。

知的発達障害や様々な障がいを持った人達が懸命にスポーツをし、そこに魂、命を輝かせてそこに存在している、その姿そのものに心打たれます。

いないんじゃなくているんだよという、このことですね。
TikTokでも、この感覚を感じますね。

本当は抑圧されて見えないようにされてしまわれかねない、そんな存在が、命を輝かせている姿に心打たれます。

人間の可能性、スポーツの本質

2つ目、人間の可能性、スポーツの本質です。

スポーツは、何故にスポーツなのかというと、可能性へのチャレンジなんです。人間の可能性へのチャレンジです。

例えばAIが出てきて、めちゃめちゃ強くなってきていますよね、例えば将棋とかで。AIのほうが人間より強くなったから、人間はもう将棋やめちゃえばいいのかというと、そんなことなくて、人間が一生懸命考える、その限界に挑戦するその姿に、スポーツや競技の本質があります。

だから、バーベル上げて一生懸命筋肉の限界を使って重いものを上げたり投げたりする競技あります。

ダンプカーや油圧式のポンプで、ボンって上げたら、人間が想像もつかないような重いものを簡単に持ち上げることができるわけですよ。

でも、じゃあなぜ、人間があんなに重いものを持って競技しているのかというと、人間の限界に挑戦をしているからです。

人間、こんなことまでできるんだ、というその魂の限界の挑戦に、スポーツの本質があります。とすると、パラスポーツもルールを様々に区切って、人間が公平に自分の限界に挑戦すること、もしくは肉体の限界の挑戦です。

あとは知恵ももちろんあるんですけど、スポーツというものを通して、限界に挑戦することをサポートするというシステムは、このパラスポーツにおいても輝きを失わないんだな、ということが理解できる。

そして、そういうものが本当に必要不可欠であることを理解できることが、ポイントになっていると思います。

パラリンピックが開催できる社会であるということ

そして最後の3つ目です。

これが僕は1番深く感じるというか、絶対にこれを譲ってはならないなというポイントなんですけど、「パラリンピックが開催できる社会である」ということを、パラリンピックは僕達に伝えてきていると思います。

オリンピックと同じ会場で、障がい者が同じレベルの、同じレベルというと誤解があるかな、競技人口が少ないので。でも同じ空間で、同じように予算をかけて、大々的にあんなスポーツができる。しかも普段マイノリティーで、目立つことのない人達が中心に出て勝負している姿を披露し、人に感動を届けることができるということを成功させている、ということそのものが、もう奇跡です。

これを誰が可能にしているんでしょうか。

もちろんスポーツに取り組んでいるアスリート、そしてそれを支えている競技団体、それだけじゃないですよね。

ここにこういう人達がここにいて、私達全員が、つまり私達も明日は障がいを負っているかもしれないわけです。全ての人間がここで輝くことができるんだということを、この地球で輝いていいんだということを、こんなに強く主張している場は他にないんですよ。

だから、この開催できる社会であるということそのものが、本当に絶対に失ってはいけない文化です。もしパラスポーツがなんらかの理由でできなくなったり、しなかったりするようになるとするじゃないですか。

これはオリンピックが開催できない以上に社会は大きく後退することになると思います。オリンピックには当然戦争への平和の祈りとか様々な別の役割があります。

それと同時に、しかしこのパラスポーツもまた、絶対になくしてはいけない非常に重要な文化的価値があるんだということを僕は3つ目にしてこの話を終えたいと思います。

スポーツはパラスポーツの選手達が一生懸命プレイしている姿を見ると、文化って、なくなっていい文化となくなっちゃいけない文化というのが仮にあるとするじゃないですか。

例えば人の悪口を言ってからかう文化とか、ひょっとしたらなくなっていいかもしれないじゃないですか。なくなっていいかどうか分からないけど、結構デリケートな話ですけど、なくなっていいとしましょうよ。そういうものはなくなっていいんですけど、このスポーツって、障がいを負ってプレイすることが困難な人達が一生懸命取り組むような話じゃないですか。

無理をして様々な人にはっきり言うと迷惑をかけて、僕らは皆迷惑をかけているんですよ、でも協力してもらって無理を通してやるわけです。

その結果、こんな感動が生まれているわけです。なくてはならない文化であるということ、スポーツというものが普段はそこまで重要なものだというふうに僕達は気がつかないわけですが、映画や演劇、音楽もそうです。普段はそこまで重要なものだと思わないんです。

しかし、できなくなったりなくなってみたり、震災で触れられなくなったりした時に、真の価値が浮かび上がる。

このパラスポーツというのは、まさにそういうことを本当に僕達は何によって支えられ生きているのかという、その魂の問題としてこのスポーツがあるのだということを改めて気づかされました。

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