文章力って鍛えられるの?スピーチライターのビフォーアフター原稿で検証してみた!

スピーチ上達法

スピーチライターの林です。

文章力って、やっぱり先天的なものなの?
トレーニングをすれば、上手な文章が書けるようになるものなの?


そんな疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?

そこで今回は、おもしろい企画を用意しました。

昔の原稿と今の原稿を比較してみよう!

これから2つの原稿を公開します。

1つ目は、3年前、私がスピーチライティングの勉強を始めた頃に書いた原稿です。
2つ目は、1つ目の原稿を3年越しにリライトしたものです。

この2つの原稿を比較して、私のライティングスキルがどれくらいアップしたのか、見ていきたいと思います。

3年前の原稿 (タイトル:理想の教育)

大学院に通っていた時の話なのですが、当時、すごく嫌いな先生がいたんですね。
裏でケチケチおばさんと呼んでいたのですが、何でかっていうと、絶対に答えを教えてくれない先生だったんです。
わからないから質問してるのに、いつも「自分で考えなさい」の一点張りだったんですよ。
そこで私は、思いついた答えをバンバン言ってみるとか、授業が終わった後に個人的に質問しに行くとか、メールを出すとか、あの手この手でアプローチをしましたが、最後までケチケチおばさんの「答えを教えないスタンス」を崩すことはできませんでした。
でも変わったものがひとつあったんですね。
私の授業態度です。

入学したばかりの頃は、当てられなきゃ発言しなかったし、先生の答えを何も考えずにノートに書き込んでいました。
でもケチケチおばさんとのバトルで、色々作戦を考えて、それを実行に移して、ダメだったら次の作戦…というふうにPDCAサイクルを回していたら、人に言われなくても自分から考えて、動いて、改善できる生徒に変わったかなと思います。
質問をする時も「~という理由で、私はこの表現が適切だと思いますが、ご意見を聞かせてください」といったように、常に自分の意見がある状態が当たり前になったんですね。

日本の学校では、自分の頭で考えなくても、良い成績は取れるし、良い大学にも入れます。
先生にたてついたりせずに素直に従っていれば、プラスにはならなくてもマイナスになることもありません。
でもそういうシステムだと、いざ1人で何かをしなきゃいけない時に、何にもできなくなるリスクがあるってことを身をもって体験しました。 
日本はもっと学生の主体性を育てる教育をした方が良いと思います。
例えば、ロシアの小学校では国語の時間に生徒に朗読をさせる時、ただ読ませるだけではなくて、その部分を要約させ、きちんと内容を自分のものにできているかを確認しているといいます。
まあ、これは一例ですが、教える内容は変わらなくても、教え方ですよね。
学生が自ら考えて行動できる力を養ってあげるべきだと思います。 

元の話に戻りますが、卒業した今となってはケチケチおばさんに感謝しかありません。
あ、最後くらい先生と呼びますね。
生徒に泣きつかれても意地でも答えを教えなかったのは「自分1人で問題を解決できる人間になりなさい」という、〇〇先生なりの厳しい愛情表現だったのかもしれないと思えるようになりました。
将来、経験を積んで後世の人材を育てる立場になった時は、知識とか技術だけではなくて、自分の頭で考えて行動できる人材を育てたい。
〇〇先生のような指導者になりたいと思います。

当時の心境

正直、私は文章力には、かなり自信がありました。
小さい頃から、作文や読書感想文はお手の物。
大学時代には、日本と韓国で開催された全国規模のスピーチコンテストで、それぞれ2位と1位を獲得していました。

そのため、↑の原稿を書きあげた時は「もしかしたら蔭山さんに褒められちゃうかも!?」という自信に満ち溢れていたんです。

ところが、私を待っていたのは予想だにしない展開でした。

私のスピーチを聴いた蔭山は「なんて言っていいかわからない」という表情で
「う~~~~~~~~~ん…」とうなっているんです。

そしてようやく出てきたのが
「言葉の向こう側にある世界を一生懸命削ってしまっている」
というコメントでした。

??????????
頭の中はハテナマークでいっぱい。
「何言ってんだ、この人」と思いました(笑)

それまで私は、自分の文章について、ネガティブなことを言われた経験が一度もなかったんです。
だからものすごく悔しかったし、コメントの意味さえ理解できない自分が、とても情けなくなりました。

ちなみに友人にも読んでもらったところ、
「フラれた女の子の愚痴を聞いてる感じ」
という絶妙な感想をもらいました。
ちーん。

それでは、この原稿を今の私がリライトしてみます。
果たして文章に変化は見られるのでしょうか!?

リライト原稿 (タイトル:理想の教育)

大学院に通っていた時、私には、大嫌いな先生がいました。
何が嫌いだったかというと、先生なのに、絶対に答えを教えてくれない人だったんです。
授業中はもちろん、個人的に質問に行っても「自分で考えなさい」の一点張り。
生徒が困っていたら、手を差し伸べるのが先生じゃないですか。
それなのに、むしろ生徒を突き放すんです。
どうせめんどくさいとか思ってるんでしょ?
自分が苦労して得た知識をタダで分け与えるのが惜しいんでしょ?
そう思っていました。

でもどんなに先生を恨んでも状況は変わらないので、自分でなんとかするしかありません。
ひたすら辞書を引く、本を読む、ネットで調べる、クラスメイトと討論するなど、ありとあらゆる手段を使って、自分の納得のいく答えを探し出すという作業を繰り返しました。
ただ、この方法は非効率的だし、1つの問題を解決するのに、膨大な時間がかかるんです。
次第に私の心は、問題にぶつかる度に、ネガティブな感情に支配されるようになりました。
あぁ…また何時間もかけて答えを探さなきゃならないのか…
時間をかけても解決できなかったらどうしよう…
このまま逃げちゃおうか…
答えを教えてくれさえすれば、この時間を他の課題に使えるのに…
先生への憎しみは、日に日に強くなる一方でした。

それでもなんとか期末試験をパスし、進級が決まった1年目の冬。
私は主任教授から、仕事を手伝ってほしいとの依頼を受けたんです。
軽い気持ちで引き受けたものの、送られてきた資料を見た瞬間、体が凍りつきました。
難解な論文だったんです。
思わず「ぎえっ」という奇声が口をついて出てきました。
でも不思議と、私の心は穏やかでした。
以前のような不安も迷いも怒りも生まれてこなかったんです。
私の頭に浮かんできたのは、たった一言だけ。
「ま、私ならなんとかなるでしょ」

その時になって、ようやく気がついたんです。
先生が私たち生徒に意地でも答えを教えなかったのは、決して意地悪なんかじゃない。
困難にぶつかった時、それを1人で乗り越えられる人間になりなさいという、先生なりの厳しい愛情表現だったんだと。
その証拠に「時間がかかっても自分の力で答えにたどり着いた」という経験を繰り返すことで、私は揺るぎない自信を手に入れることができました。
いつもどんな時も生徒に寄り添い、困っている時は手を差し伸べるのが良い先生だ。
そんな固定観念を覆してくれた、忘れられない出来事です。

感想

いかがでしたか?
成長は感じられたでしょうか?

今回、リライトをする上で意識した点は大きく3つあります。

レポートではなく、ストーリーを書く

3年前、私は蔭山からこんなことを言われていましたよね?

「言葉の向こう側にある世界を一生懸命削ってしまっている」

当時は、このコメントの意味が全く理解できなかったのですが、今は心の底から同意します。

蔭山の指摘を別の言葉で言い換えると
「言いたいことを全部文章にしてしまっている」
ところが、私の文章の最大の欠点だったんです。

え?どういうこと?
スピーチって自分の意見とか考えを表明するためのものだよね?
言いたいことを言葉にして何がいけないの?
って思いますよね?
私もずっとそう思っていました。

でも、そうじゃないんです。
スピーチはレポートではありません。
スピーチは物語じゃないといけないんです。

みなさんは大学のレポートとか会社の報告書を読んで、感動しますか?
心を揺さぶられますか?
多分、感動もしないし、心も揺さぶられないと思います。

一方、小説を読んだり映画を観たりすると、私たちの中には様々な感情が湧き上がってきますよね?
そして気づいたら、登場人物と一緒に笑ったり怒ったり泣いたりしています。

レポートや報告書になくて、小説や映画にあるもの。
それは、ストーリーです。
スピーチを書く際は、伝えたいことを一から十まで説明するのではなく、小説や映画のように、ストーリーに乗せて届ける必要があるんです。

そのため

①自分の意見をつらつらと説明している段落をまるっと削除
②メインであるストーリーの肉付けをする
③そのストーリーを踏まえて何が言えるのか?ということを最後に簡潔にまとめる

という構成に変更しました。

心の動きを丁寧に描写する

先ほど、レポートや報告書を読んでも私たちの心は揺さぶられないけれど、小説を読んだり映画を観たりすると、私たちの中には様々な感情が湧き上がってくるという話をしました。
その理由は、小説や映画の中には、私たちが共感できるポイントがあるからです。

例えば、みなさんは小説を読んだり映画を観たりしている時に、こんな気持ちになったことはありませんか?

「本当の友情ってこういうものだよね」
「このままやられっぱなしじゃ悔しいよね」
「恋は楽しいけど辛いこともあるよね」

この時、まさにみなさんの中には、共感が形成されているのです。
登場人物の状況や感情に自分を重ね合わせて、「わかるわ~」と思う感覚、それが共感です。

共感を繰り返すほど、読み手や鑑賞者は登場人物に深く感情移入していき、まるで自分のことのように話を聞いてくれるようになります。

そのためスピーチにおいても、聴き手が登場人物(私)に感情移入できるよう

その時、何を考えたのか?
どういう心境だったのか?
ストーリーの展開に従って、感情がどのように変化していったのか?

といったような心の動きを丁寧に描写する必要があるんです。

ところが3年前のスピーチ原稿は、ひたすら出来事の羅列…
心の描写が全くないので、聴き手も登場人物である私に感情移入ができません。
「あぁ、そんなことがあったんだな」で終わってしまいます。

そのため、出来事の説明を最小限に抑え、当時の感情や心境の変化をなるべく細かく描写するようにしました。

一文をシンプルにする

3年前のスピーチ原稿は、とにかく

一文一文が長い!!

ひとつの文章の中に、色々な要素がぎゅぎゅっと詰め込まれていて、内容を理解するのに時間がかかります。
だからか、読み終わった後の疲労感がすごかったです。

それでも今回は原稿の形だから、まだいいんです。
内容が複雑でも、文章を目で追えますし、わからなかった部分を読み直すこともできます。

ところが、実際のスピーチは、そうはいきません。

聴き手は情報を耳から仕入れます。
そのため、複雑な構成の文章にしてしまうと、頭の中ですぐに処理ができず、どんどん話についていけなくなります。


だからといって、スピーカーの話を一時停止したり、巻き戻したりすることはできません。
そのうち聴き手は集中力が切れ、話から離脱してしまうというのが、スピーチの失敗あるあるです。

聴き手に最後まで話を聴いてもらうためには、原稿作成の段階から

・一文を極力短くする
・ひとつの文章で伝えることはひとつに絞る
・難しい表現は避ける

といったことを意識して、文章を書いていく必要があります。

結論

今回、数年ぶりに、昔のスピーチ原稿に目を通したんですけど、

「なんじゃこのメチャクチャな原稿は…」

というのが第一の感想でした。

当時は自信満々の原稿だったのに、3年経った今読み返してみると、ダメなところしか見えてこないんです。
正直、このブログを書かずに、永久にお蔵入りにしようかと思いました。

でも、裏を返せば、それだけスピーチライティングのスキルが身についたということだと思います。

もちろん、今回公開したリライト原稿がベストだとは思っていません。
また数か月後、数年後に見返した時、文句を言っている未来の自分が見えます(笑)

それでもこのブログを書いたことで、少しずつではあるものの「着実に成長できているな」と感じることができました。

ということで、結論!

文章はトレーニングをすれば上手くなる


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