スピーチはイチゴのショートケーキ??

シナリオライティング

みなさん、プレゼンテーションやスピーチでは、結論を最初に話せって、学校で教わりませんでしたか?

でも、本当にそうでしょうか?

ここでは、シナリオライティングの観点から、結論をスピーチのどこに配置するのが良いかを考えてみたいと思います。

結論ファーストとイチゴのショートケーキ!?

ちょっと唐突かもしれませんが、皆さんに質問です。
イチゴのショートケーキのイチゴ、最初にたべる? それとも最後に食べる?

ボクは、イチゴを最後まで取っておきたい派です。スポンジとクリームを十分に堪能した後にこそ、あの甘酸っぱいイチゴが真に美味しく感じられるのであり、イチゴのショートケーキが完成する瞬間だと思っています。ですから、イチゴは最初に絶対食べたくないのです。

あなたは、イチゴを最初に食べる? それとも最後?

しかし、スピーチではどうでしょうか?
プレゼンテーションではどうでしょうか?

教科書には、大抵「結論は最初に」と書かれています。

プレゼンテーションを聞く人が専門家だった場合、あなたのプレゼンテーションのすべてを聞きたいわけではありません。

なんと、ボクにイチゴを先に食べろというわけです。
いやです。。。。
しかし、食べろと。

その理由は、もっともです。

専門的な論文と同じです。論文では、まずアブストラクト(概要)という形で結論を先に書くのがマナーです。そうしないと、限りある時間の中で、全文読まされるハメになるので、忙しい研究者は研究がまったく進まないという事態になります。ですから、まず結論を読んで、その上で、その結論をどう導いたか、その結論が信用できるのかについて、詳細に述べる、という手順で論文を書くことになっています。

これと同じ理由から、学会などのプレゼンだけでなく、ニュースや新聞記事など、情報を素早くインプットするための書き方は、結論が最初で統一されています。

ボクも、大学で鍛えられ、研究者として今日に至るまで、この訓練を受け、そして続けてきました。

しかし、ボクは、イチゴは最後に食べたい派なのです。
最初には、本当に、食べたくないのです。

しかし、しかし、

世の中は、イチゴを先に食べろと言う。。。。

イチゴを最後に食べてよいのか?

このジレンマの解決策は意外なところにありました。
なんと映画「スティング」にあったのです。

「スティング」は二人の詐欺師の一世一代の大博打の映画です。

名優、ロバート・レッドフォードとポール・ニューマンの二人が、映画の中で詐欺師としてダマシの演技するのですから、演技×演技、演技の二乗、つまりすごいのです。

息つく暇もないほど、スリリング!

不思議な感覚に乗せられたようで、あれっ、あれって、物語は二転三転、どんでん返しが何回も続きます。

詐欺師が主人公なので、ダマシも二重三重です。もう、最後までハラハラ・ドキドキしっぱなしで、何回も予想を裏切る展開に、目が離せませんでした。ラストシーンも、「えっ、そうなの?それはないかも!」って思わせておいて、最後は大喝采です。

そして、見終わったあと、あれれ、ちょっと待てよ。
映画のオチは、最後までわからなかった!
これって、「イチゴは最後」のパターンなんじゃない⁉️

なるほど、映画なのか!
スピーチは映画でいいんだ !!

たしかに、学会のように情報へのアクセスの速度が求められる話し方では、結論ファーストがいいでしょう。しかし、話自体を楽しんだり、最後までワクワクするのは、結論が最後でもいいかもしれません。

イチゴで〆!

実際に、イチゴ(=結論)が最後の〆となっている世界最高のスピーチを一つご紹介しましょう。リンカーンのゲティスバーグでの演説です。

今から157年前の7月、南軍(南部連合国)と北軍(北部合衆国)が、アメリカ内戦最後の大激戦に挑みました。双方合わせて50,000人近くの死傷者を出したこの戦いが転換点となり、内戦は終結に向かいます。

11月、かつての激戦地跡にゲティスバーグ国立戦没者墓地が作られました。その開所式、第16代アメリカ大統領が、アメリカ合衆国が拠って立つ自由と平等の原則を顕しました。
約2分間の短い演説ですが、最後にあの名台詞があります。

『ゲティスバーグでの演説』
エイブラハム・リンカーン 11/19/1863

87年前、我々の祖父達はこの大陸に新しい国家を建国しました。自由の精神に育まれ、すべての人々は平等に創られているという信念にささげられた国家であります。

いま我々は偉大な内戦に従事しています。そのように育まれ、そのように思いを捧げられた国家が、長い時間存続できるかどうかが試されているのです。私たちはこの戦いの大激戦地に集いました。国家存続のために、ここで命を捧げた人々に最後の安息の地となるよう、この戦場の一隅に祈りを捧げるためであります。

しかし、もっと大きな視点からは、私たちはこの地に祈りを捧げることも、神聖なものとすることも、栄光を与えることも出来ないのです。生死に関わりなく、ここで戦った勇敢な人々は、私たちのほんのささやかな力よりも、はるかに大きなものをすでにこの地に捧げているからです。ですから、私たちがここで語ったことは、永く記憶されることはないでしょう。

しかし、彼らがここで為したことは、決して忘れ去られることではありません。ここで戦った人々が、かくも立派に推し進めてきた未完の仕事を成し遂げるために、献身しなければならないのは、生きている私たちなのです。ここにいる私たちは、眼前に残された偉大な仕事に命を捧げなければなりません。

その仕事とは、名誉ある戦死者からその意志を受け継ぎ、彼らが最後に多大の献身をなしたその目的のために、いっそうの献身をすること、人々の氏が無駄にならないように硬く決意すること、神のもとでこの国に新たな自由を誕生させること、そして、人民の、人民による、人民のための政治が、地上から滅びることのないようにすることなのです。





最後に、あの「人民の、人民による、人民のための政治」というイチゴが登場しました。いまでも、世界中のスピーチの教科書で必ずと言っていいほど紹介されるこの演説が、イチゴは最後まで取っておいてもいいよ、と教えてくれます。

一度、声に出して、じっくりと味わってみてはいかがでしょうか?

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