私たちが感情移入する仕組み

コンセプトワーク

非日常って、同情?

僕はスピーチライターなので、普段から意図的に感動するような構造をつくったり、人の心が動くようなシナリオ(原稿)を作ったりしています。

シナリオ(原稿)を書くときのポイントとして、共感と、安定した日常が事件によって破壊されて、不安定になる。不安定になったら、安定を取り戻そうと思って努力をたくさんします。しかしうまくいかず非常に困る。何やっても困る。なかなかうまくいかない。このなかなかうまくいかないというところに共感が集まります。

こういった説明をしています。

このことに対してよく、「困ってるだけだと、要は同情なんじゃないの?それって共感なの?」という質問をいただきます。

今回は、このご質問に絡めて記事を書いていこうと思います。

世の中のほとんど全ての人間の活動全般が、実はこの日常と非日常、もしくは安定と不安定の繰り返しです。

困って強く何とかしたいと努力する状態こそが非日常

例えば、バレーボールという競技になぜ我々は感情移入し、深く共感をし、ある特定のチームを強く応援したくなるのかっていうことからちょっと考えてみましょう。

バレーボールって手の上にボールが乗っかってるところからスタートするじゃないですか。

つまり安定してるんですね。0対0。これも比較的安定しています。

それがサーブでボールをポンと上に上げて、バシッと打つと。その瞬間からどっちに落ちるんだっていう非日常がスタートします。

つまりサーブってのは事件なんです。

どっちに落ちるのかっていうのが非日常で、いかに落とさないかっていうことにみんな必死になるわけじゃないか。

コレを「困っている」という表現を僕は前回したんですが、落ちないように必死にもがき苦しんでいるといっても、別にいいし、苦しんでなくて、必死に努力してるって言ってもいいんです。

実は、困るというか、強く何とかしたいと思って努力してる状態こそが非日常なんですよ。

だからあの時は困るという表現をしたんですが、バレーボールの選手がボールを自分のコートに落とさずに、相手のコートに落とそうとする行為って、困ってると言えば困ってるでしょう。

努力しているといえば努力してますよね。そのような状態のことなんです。

そこに共感が生まれるっていう意味ですね。

こう理解していただくと、困れば困るほどっていう表現の本質的な意味が分かっていただけるかなと思います。

実は、もうちょっと整理しておくとバレーボールだけじゃないですよ。

あらゆるスポーツはこのような安定と不安定を繰り返すゲームになっていますし、スポーツだけじゃないですね。音響空間に置き換えれば音楽になります。

また身体性の安定と不安定、つまりビシッと立っているという状態から、崩れて様々に動いて、またビシッと立つっていうこの一連の動きって、まさにダンスの動きそのものですよね。

あらゆる人間の感情移入の構造が、安定と不安定で説明ができると言ってもいいんです。

だからコミュニケーションを設計するときに、困るというか、非日常(「どのように安定から遊離し、ふわふわと浮いた状態で、もがいてなんとか次に行こうとしてるその努力」)を設計できるのかが、コミュニケーションの醍醐味であり、あらゆる人間活動の中心にある概念、ポイントになります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました