無差別殺人事件は、秋葉原や池袋の通り魔事件、京王線のジョーカー殺人事件など、歴史的にも定期的に起こる事件です。
殺人犯は、取り調べに対して、「人を殺して死刑になりたかった」などと供述します。
そういう愉快犯的な殺人事件に対して多くの人は、「迷惑をかけずに勝手に…」と反論をするわけです。
飛び降り自殺など、人に迷惑をかけるような死に方をするんじゃないよと、
誰にも迷惑かけずにひっそりと死になさいと言うわけなんですけど、
この批判が全く見当外れであり、そもそもこのような死刑になりたい人物に対して、一体どのような言葉が効くのかをお話します。
まなざしの地獄
まず、まなざしの地獄の話をしなければなりません。
見田宗介という、日本で有数の社会学者だった方が『まなざしの地獄』という書籍で書かれていることは、昭和の高度成長に至るまでの地方においては、眼差しが濃厚すぎて、その濃厚な眼差しから逃れるために都会に出てくる。
そして、都会に出てきて様々な視線を逃げるために、例えば警備員から目撃されたその目線から逃れるために、殺人を犯す、ということが一般的に行われたと永山則夫連続射殺事件(1968)を通して明らかにしました。
しかし近年、限りなく透明に近いブルーなどと呼ばれるような存在、社会、路傍の石としての自分みたいな、誰もあなたのことを見てくれない、誰も私を気にかけてくれない、誰も私を肯定してくれないという社会においては、逆に視線を閉ざすための殺人ではなく、視線を求めて殺人を犯すことになります。
つまり、殺されたいわけではないんですね。
「死刑」が1つ大きなキーワードになるんですけど、何か愉快犯的な行動を起こして視線を獲得することが、限りなく透明に近い存在であることよりも、より自分の生きるための大きな動機になる。
だから、見てもらうために死刑を望むような愉快犯的犯行に及ぶということが起こるわけです。
縁が絶たれた人は、倫理的な葛藤が生じにくくなる
このような視線を獲得するために犯罪を犯そうとする人の、倫理的な問いはどうなっているか。
心の中で殺人を肯定することが起こるわけです。
それは正義ではなくて、倫理の崩壊といってもいいと思います。
多くの人は、殺人事件を犯そうとした時に、自分の中で倫理的な葛藤が生じるわけです。
本当に人を殺していいんだろうか、
本当にものを盗んでいいんだろうか、
本当に○○をしていいんだろうか、
こういうことが何か犯罪めいたこと、他者との関わりがある中で、他者に迷惑をかける行為をするような時に、心の葛藤が起こるわけですが、このような無敵の人、縁が絶たれてしまった人は、そのような葛藤が極めて起こりにくい、逆に自分のために行動を正当化することさえできます。
ニーチェがこんなことを言っているんですね。
あらゆる倫理の根源は、生きようとする意志に根差しているのだ。
なぜ、生きようとする意志があると、倫理が発生するのか。
生きようとする場合、他者との関係が必ず生じます。それを安定したものにしようとするために自分は倫理的な存在、他者との関係を良きものとするような継続的努力をする存在でいようとするわけです。
ところが、当然自ら生きようとすることを捨てているわけですね。
死んでもいいとか、死刑になりたいなどと主張する存在においては、他者との関係の縁が絶たれているため、つまり無敵の人なんですが、そうなると自分は厳しい状況に置かれているわけですから、もうどうだっていいやと倫理的な一切の葛藤を捨て去って他者への恨み、社会への恨みだけを誘発して、死をまっすぐ受け入れるための行動を起こすことが容易に想像がつくわけです。
だから、まず生きることそのものに対する肯定をなんらかの理由で与えなければなりません。
そのためにまず教育にいて、つまり地縁、血縁、社縁などの基本的な縁において、あなたが生きることを肯定するものである、あなたは全人格的に生きることを認められた存在であることを360度あらゆる人間関係の中で認めていくことがまずは第一歩になると。
しかし、社会は非常に厳しいものです。
今、日本は厳しいと言われながらもそれでも貧困国や中世ヨーロッパに比べれば、もしくは中世の日本に比べれば、それでもマシな社会と言うこともできるかもしれません。
非常に厳しい貧困の中に喘ぐ心理の状況、盗み、殺人、このようなものを通してでしか生きることができなかった罪人は、貧困を理由にかなりの数がこれまでの歴史の中で発生してきています。
皆飢えて死にそうな時に、生きようとする理由は、宗教的なものが担っていました。
キリスト教は神の意志によって自殺を否定し、生きることそのもの、自殺を禁止し生きることにかけろということを命じるわけです。そこに根拠はありません。宗教的な理由によって生きろというわけです。
そしてそのことによって倫理が発生し、社会を維持しようと思うものです。
これたまたまなんですけど、同じような記述が仏教の僧侶の中でもありまして、曹洞宗の僧侶南直哉(みなみじんさい)さんという僕の尊敬している僧侶がこう言うわけです。
仏道というのは生きることにかけることである。これほとんど同じでしょう。
生きるという意思を尊重することから全てが始まる。生と死を選択する時に絶対に生きることにかけるのが仏教なのであるというわけですね。これもおそらく理由としてはほぼ同じだと思います。
偶然にもキリスト教倫理、仏教倫理において生きることに対する賭けが倫理の根源であるということを指し示しております。
社会が荒廃し、社会が人の生きることに賭けることを支えることができなくなった時、何をもって生きるべきなのか。
これは宗教社会学的に、なんらかのサポートが必要なのではないかと思われます。
歴史の中で繰り返しそのようなサポートがされてきたわけで、今後、おそらく社会はより荒廃していくことになります。
その中において、なぜ我々は生きるのかが改めて問われる時代がやってきていると言えるかもしれません。
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