飴玉事件と神聖性

評論

皆さんこんにちは。蔭山洋介です。今日はですね「飴玉事件と神聖性」っていうテーマでお話をしたいと思います。

市議会で飴をなめていた議員が処分された事件、本質的には何が問題なの?

皆さんニュースをご覧になられました?2日か3日前に、熊本の市議の女性が飴玉をなめて問題になって、議会に行っちゃいけない日が1日できちゃったみたいな、処分が下ったっていうのは、イギリスを中心とする議会制民主主義の先進国からかなり批判されて、日本はまるで古い、なんて硬直した国なんだみたいな主旨の批判が随分出たっていう事件だったんですけど、コメントをいろんなニュースとかワイドショーとかで見ていると、硬直性みたいなことが批判されているだけで、あんまり本質的な、本質的っていうのは、何でそんなことが問題になるのかっていうことについての議論があまりされてないので、ちょっとびっくりしているので、その補足をしながら、これまでエートスいうかハリーの声みたいな話をしてきたんですが、そういうことと絡めてお話をしたいと思います。

飴玉事件の本質は「形式重視派」VS「実態重視派」の戦い

飴玉事件の本質は保守的な考え方、「何を神聖なものとするか」という人たちと、「いやいや実務こそが重要なのだ」っていう人たちの戦いになっています。つまり「形式」が重要なのか、「実態」が重要なのかって、そういう話なんですね。

みんな忘れてるんですけど、実態こそが重要だっていうのは実に簡単なんです。だからそう言いたくなる気持ちはよくわかりますし、そういう批判が多いのも自然です。

しかし一方で、私たちは神聖なものを神聖として扱うということに敏感な生き物でもあります。

どういうことかって言うと、例えばですよ、子供が授業中にガムをくちゃくちゃ噛んでいるとするじゃないですか。授業中にガムを噛んでる子がいたとする。その子を先生が指導するか否かというと、多分指導しますよ。ちゃんとしなさいと。それは多分周りの子に迷惑でしょうとかって言うニュアンスがあるんですが、ひょっとしたらガム噛んでるほうが集中力が高まっていいっていう子供もいるかもしれなくて、一概に実効性の問題というか、実際の問題としてどっちがいいかっていうのは一概に言えません。

その代表的なものとして、授業だけじゃなくてですね、例えば野球という現場で考えてみましょうか。日本って野球ってすごいストイックに訓練する場所なので、大半の野球場で日本の少年たちがガムをクチャクチャ噛みながら練習すると、多分すっげー怒られると思うんですよ。「お前ら!こんなところでガムなんか食ってんじゃねーぞ!ちゃんとしろ!高校球児だろ!誇りがないのか!」とかって多分すごい怒られるんですね。

でもアメリカの大リーグ行くでしょ。みんなガム噛んでますよね。その方がリラックスできるし、集中できるからなんですね。ガム噛んだ方がいいわけですよ、結果も。ということはですよ、実際問題から考えると、授業中にガム噛んでいいやつがてくるはずだし、高校球児は当然ガム噛んで良くなりますよね。

実際には飴をなめたり、ガムを噛んだほうが成果は上がるのに、なぜダメなのか?

でも駄目でしょ。なんでだめかっていうと、それは神聖なものだからなんです。

高校野球っていうのは、単に子供達が部活動やって競技してる場ではないんですね。多くの人達にとって。だから単純にガムを噛むことができない、つまり成績と関係ないところで、私たちは何が敏感に反応しちゃうんですよ。

それが実は議会という場でも同じことが起こっていて、議会っていうのは、神聖な場なんですね。多くの人達にとって。もしくは議会というものを目指してきた政治家さんにとっては、とても神聖な場だったわけです。

そこに飴玉を議会中になめて出てくるやつが出てきた。神聖性に対する冒涜なのかという話で、怒り沸騰して、処分に至っているし、市議会のみなさんにとっては、神聖性の冒涜として違和感がなかったので、処分まで行っちゃったっていう話だと思うんですね。

言葉を扱うときには、神聖性をどう扱うか自覚することが大切

僕は実際派なので、ガム噛んでもいいじゃないかとか、議会で飴なめてもいいじゃないかって派ではあるんですが、しかし一方で保守のみなさんの神聖性に対する冒涜ということについては、ちょっと敏感な立場です。

なぜかと言うと、スピーチとか言葉というのは神聖性なくして成立しないところが大きいからです。だからちょっとね、配慮が足りないんじゃないか、実務上の利益以上に守るべきものがある人たちの心に、もうちょっと寄り添った上で、理解を求めていくっていう段取りとか経緯とか、こういうものがないとうまく噛み合わないだろうなと思います。

最近だと、同様の事件がですね、落合陽一さんが下駄を履いてニュースに出たと。これは冒涜だ。ニュースにふさわしくないってことで、見た目問題が発生したりしました。

少し古いですが、性愛にも神聖性が発生するので、ベッキー不倫事件とかね、不倫問題って、倫理的にあらずと書くぐらいですから、正義の問題が、正義と言うか神聖性かな、この問題がここに顔を出してるって事が分かります。

どのような活動するにせよ、この神聖性ってどうやって扱っていくのかというのが社会問題でどんどんこれから噴出してくる時に、神聖性をよく見てみるのと、私たち自身が何か言葉を扱うときには、その神聖性にどのように敬意を払い、もしくは正面から戦いを挑むのか、挑んでいるという自覚を持つのかってことが重要だって、そういう話をさせていただきました。

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この記事を書いた人
蔭山 洋介

スピーチライターとして、上場企業経営者など多くのリーダー層のスピーチを執筆している。ベビースターが好き。

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